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弱者と強者(1)
2005年11月25日
宇佐美 保
私達は、“今の痛みに耐えて明日を良くしよう” との構造改革を叫んで登場した小泉首相に多大な期待を抱きました。
そして、今、小泉改革の「痛みは弱者に押し付け」、「美味しい果実を強者が貪り食う」との実態を知り愕然としているのです。
(しかし、多くの方々は、「小泉チルドレン」に自分を準え、今もって小泉氏に夢を託しているようです。)
小泉氏を支持する多くの方々は、ご自分も強者と認識されておられるのかもしれません。
そして、ご自分が弱者になるとは、思っておられないのかもしれません!?
そして、「この世は、強者のみの為にある!」と思われているのかもしれません。
ですから、小泉氏と心を同じくする(?)石原都知事は、(拙文《石原慎太郎都知事とテロ》にも引用させて頂きましたが)次のように発言されるのだと存じます。
(下記のホームページから引用させて頂きます。)
(http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/ishihara/data/19990918fuchuu.htm)
1999年9月18日、府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)視察後の記者会見 ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。
絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって……。しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな。
人から見たらすばらしいという人もいるし、おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。
ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする。 |
石原氏は、もう既に私達一般人の何倍、いや何十倍も変化に富み充実した人生を歩み、お子様達も立派に成長されたからこそ、このような発言を平気で出来るのだ!と言う事を自覚されていないのでしょうか!?
若し、石原氏が重度の障害を持たれて生まれておられていたら、このような発言をされるでしょうか?
石原氏とて、いつの日か、自分自身の力で、話せるよう、書けるように、歩けるように・・・との夢を抱くのではないでしょうか?!
重度の心臓疾患を抱えて生まれ、しかも完治を目指しての3度目の手術は既に心臓が癒着したので、ペースメーカーの交換のみに終わり、肉体的活動が不自由な為、都立多摩川南養護学校に学び、多くの方々に感銘を与えつつ短い人生を終えてしまわれた、関口美保さんの実話的物語『かがやいて13歳(菊地澄子著 発行:ポプラ社)を、石原氏はお読みになっては如何でしょうか?
そして、私は、次のような前田専學氏(挙剣研究会常務理事/東方学院長/インド哲学・仏教学))の記述(『中村元 仏教の教え 人生の知恵(河出書房新社:発行)』)に心打たれるのです。
(そして、自らを省みて反省するのです。)
(中村元)先生のこころを深くとらえたのは、仏教の「慈悲」の教えであった。慈悲は一切の徳の根源であり、これは一般的に言えば、人間だけではない、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」 (仏典「スツタニバータ」」と念じ、実践することである。これは先生と令夫人のお二人で最晩年に造られた多磨墓地にある墓碑に銘刻された文言である。 |
このお釈迦様の「生きとし生きるもの」とのお言葉は、例えば、暗い土の中でうごめいているように感じる「ミミズ」にも立派な生きる目的と意義があると言う事です。
石原氏が「ミミズ」に生まれてきたら、先のような発言をされないでしょう。
「ミミズ」としての立派な生命を維持しようと努力されるのではないでしょうか!?
そして「ミミズ」の存在で土地は肥沃となり、作物が豊かに育ち・・・
(「ミミズ」自身はそれを意図せずとも・・・)
仏教の根本思想は、全ては因果関係にある事ではありませんか!?
世の中「強者」だけで成り立ちますか?!いわんや「弱者」だけで!
私の尊敬するヤンキースの松井秀喜外野手は、4年契約の5200万ドル(約61億9000万円)で再契約することで合意したその日、米国の日本語学校の生徒さんからの“そんなにも大金をもらって何に使うのですか?”との質問に対して、“将来、慈善事業に使おうかとも思っています”と答えていました。
又、週刊文春(2005.12.1号)には、次のように書かれていました。
「使い途は全然考えていないし、実際にまだもらったわけではないですからね。 でも、ファンデーション(基金)を作って寄付なんかできたらいいですね」 四年間で六十二億円。副収入を含めればおそらく百億円近くの収入を得ることになるが、松井自身はあまり実感が湧いていないようだ。ただ、これまでもベトナム孤児の里親になったり、今年一月にはスマトラ沖地震の被災地に日本赤十字を通じてボンと五千万円を寄付。こうしたボランティア、義援活動も今後はさらに活発になっていくだろう。 |
この松井選手の言に対して、悲しい事に“税金に掠められるより、慈善事業に使えば名声も得られるからなあ〜〜〜〜!”と穿った見方をされる方も居られるようです。
(しかし、私は、松井選手がベトナム孤児の里親になったり、スマトラ沖地震の被災地に五千万円を寄付した事実を、知らされてはいましたがもう忘れていました。
ですから、名声が得られる事で基金を設立するとしたら、それは、はかない事と存じます。)
だったら、イチロウ選手もホリエモンも小泉首相も、高額所得者(少なくとも1億円以上の所得がおありの方々)である「強者」の皆様方、全て慈善事業に寄付されては如何ですか?
さすれば、それらのお金は、税金として迂回しない為に確実に「弱者」に回って行くではありませんか!?
だって「強者」の皆様、あなた方だっていつ「弱者」になるかも分からないのですよ!?
それに、今の「強者」の皆様も、昔は「弱者」だったのではありませんか!?
松井選手も、イチロウ選手も、長島監督、仰木監督はじめ多くの方の支援あってこそ「強者」になられたのでは?
そして、彼らは常に恩人達に敬意を表しています。
さて、日本の「勝ち組」の代表格である「トヨタ」ですら、過去は「弱者」ではありませんでしたか?
トヨタの歴史は、当然、豊田佐吉に遡ります。
彼について、トヨタのホームページを見ますと次のように書かれています
1890年、東京で開催された内国勧業博覧会で外国製織機を見、独力で「豊田式木製人力織機」を発明しました。その後も研究と改良を続け、1924年にはその当時世界一と評価された「G型自動織機」を完成しました。そのたゆみない研究と創造の精神は脈々と受けつがれ、現在のトヨタグループの礎となっています。 |
先ず、佐吉氏が、内国勧業博覧会で外国製織機を見る事が出来なかったら、「G型自動織機」の完成もなく、今の「トヨタ」もなかった筈です。
そして、佐吉自身は「静岡県の貧農の出身」だったのです。
「弱者」だったのです。
更には、自動織機から自動車の王者に至る道は、NHKのプロジェクトXにて、放映されました。
その内容をNHKホームページから抜粋します。
愛知県豊田市。そこに、年間16兆円を売り上げる世界企業がある。「トヨタ自動車」。年に生産する車の数は、実に600万台。稼ぎ出す外貨は、日本が毎年輸入する原油の総額に匹敵する。 しかし昭和25年、「トヨタ自動車」は倒産の危機にあった。主力商品は、戦中、軍用に作ったトラック。故障で売れなかった。銀行に融資を止められ、給料も払えない。すぐさま勃発した全従業員6000人の大ストライキ。創業の社長は、辞任に追い込まれた。 その時、命運を託されたのは、工場たたき上げの現場主任・中村健也だった。眼光鋭く、威圧感のある男。入社以来の夢、「国産乗用車開発」に打って出た。 だが、開発は過酷を極めた。トラックとは違い乗用車の鍵は振動の制御。日本の悪路は手強かった。試作車を作るが、バネは折れ、車体はバラバラ。さらに、国内のライバルメーカーは、次々に外国企業との技術提携の道を選択。経済界からは、「自動車産業不要論」までもが出た。 それでも、開発のリーダー・中村は諦めなかった。2万点を数える部品の一つ一つを改良。車体作りの鍵・鉄板を求め、自ら鉄鋼メーカーとの交渉に乗り出す。そして昭和31年、完成した車は、ロンドンー東京・全長5万キロの壮大なテストドライブに打って出る。 初の本格国産乗用車「クラウン」。その執念の開発物語。「自動車王国・日本」誕生の壮絶なドラマを伝える。 |
ですから、鉄鋼メーカーが「トヨタ」にそっぽを向いていたら、マスコミが「ロンドンー東京のテストドライブ」の成功を無視していたら、そして、直ちに顧客(タクシー業界でしたかしら?)が購入しなかったら、勿論、今でも顧客が「トヨタ」を無視していたら、「トヨタ」は「勝ち組」になれたでしょうか?「勝ち組」であり続ける事が出来ますか?
(顧客には、品質で報いると言っても、日本が「勝ち組」と「敗け組」に2分されては、「勝ち組」として残るのは、少数です。この少数の顧客だけで「トヨタ」は商売が成り立ちますか?)
そして逆に「強者」が突然「弱者」なることを私は身近で体験しました。
私は、H製作所での勤務時代に精神分裂病(注:1)罹ってしまった方(病君(仮名))を何年か預かりました。
(注:1) 平成14年8月に開催された日本精神神経学会総会で |
そして、以下に綴ります、私の行動(病君に対して、私としてはベストを尽くしていたつもりですが、今にして思えば、もっと他人(お医者さん等)の意見忠告を取り入れていた方が良かったと反省もしています。)や病君の存在は、今のH製作所では許されないのだと存じます。
(かつては許されたのです。或は、お目溢し頂いていたのでしょう!?そして、今も許されて欲しいと願うのです。
それよりも、病君のような方が安心して働けるように制度化されていて欲しいものです。
病君には労災保険が適用されてしかるべきだったのでは?)
病君は、東北大を修士課程まで修めた後、H製作所のN工場へ勤務しました。
その工場は赤字の為、毎日毎日バカ呼ばわりされて扱き使われていたそうです。
(勿論、休日出勤もざらで、残業代は出ない!)
そんな中で、病君は統合失調症を発病させて入院したそうです。 |
(失恋の痛みもあったとか?この点は定かではありません。)
そして、退院した後、私の所属する事業所へ転勤してきました。
でも、彼が最初に所属した部署の上司も、みなをバカ呼ばわりして扱き使うタイプの方でしたから、病気はたちまち再発し、半年ほど入院した後、私のところへ来ました。
しかし、彼を数年間預かった後、私は歌の道を進みたいと思い退社しました。
でも、
退職後の私に、毎日毎日、午前も午後も何時間もの長電話が彼からかかってきました。 (一日、5時間くらいでしたかしら) |
彼は、会社での不安、これからの人生での不安を私にぶっつけ、その対策案を私に求めたのです。
ですから、病君のお母さんが彼と一緒に、我が家へ日頃のお礼にと御挨拶に来られた時は、私の母は“私の息子をこれ以上苦しめないで下さい!”と病君のお母さんに(失礼にも)お引取り願ったくらいでした。
(私は、それほど苦にしていませんでしたが、横で電話の応対を何時間も聞かされている母は私の苦しみが大きなものに違いないと感じたのでしょう。
なにしろ、病君との電話は単なるおしゃべりではなかったのです。
病君は自分の病気での切実な悩みをぶつけてきます。
ですから、私も病君と同じように悩み、何とか解決策を捻出しようとの真剣勝負でした。
病君のお母さんは、彼の電話に仕掛けられたスピーカーで二人の会話を聞かれ、病君の日常生活に少しでも役立てたいと念じて居られたのです。)
以下に、 H製作所在勤時代の病君との触れ合いを、もう少し詳しく思い出して記述します。
(1)病君への仕事の依頼 |
私は当時、半導体製品開発の一部を担当していましたので、彼には、その開発に伴う実験測定を手伝って貰っていました。
実験等は、共同実験場で行いましたから、各種の電気的な測定機器装置は皆と共用でした。
そして、とても不思議なことに気がつきました。
彼が使用している機器装置を別の人が使用しようとしたり、一寸触ったりすると彼の形相が、恐ろしい顔に変わってしまうのでした。
ですから、私は、病君が仕事にかかる前に測定等の準備を全て整え“病君が共用の装置を使用中している際は、他人が絶対に触れないよう。文句は彼に直接言わず、私に言ってくれ”と、皆に頼みました。
その後、彼に仕事に取り掛かって貰いました。
(また、他の部署を借りて実験を行う場合も同様でした。)
そんな訳で、皆は
「病君は、まるで.赤いジュウタンを歩いて行くようだ」と言い、 そして、彼を“王様”と呼んでいたものでした。 |
(2)病君はすぐに不調になりました |
私がどんな仕事、会議中でも、病君が、“宇佐美さ〜ん”とやって来たり、作業場の女性から“病君さんが変よ”と電話して来ると、私は、彼を捜し出し、
漏らした小便(彼が精神安定のために服用している薬の副作用の為)でズボンを濡らし、顔中をよだれと鼻水でグジュグジュにした彼の手を取り、 工場中を、一階、二階、三階、四階、屋上、そして又、四階、三階・・・と、 一時間でも、二時間でも、手を繋いだまま彼の気持ちがおさまるまで話しかけ グルグルと歩き回ったものでした。 |
一箇所に居ると、人目を気にするでしょう。
歩いていると、気が紛れるでしょう
手を握ってもらっていると、気持が安らかになるでしょう。
(3)病君の仕事の結果の処遇 |
彼が作成提出した報告書は、私は取り敢えず一旦全て信用し、どんな会議といえども、前もって、その細部をチェックせず、私たちの部署の顧客であるK工場との会議でも、そのまま提出し、万一不審な点が有っても、病君の前で非難せず、彼の居ないところで私に文句を言ってくれと頼みました。
彼のような立場の人は特に、自分の仕事を疑われるのは、辛いでしょう?
(4)彼の病気は治るのでしょうか? |
病君と一緒に、彼の通っているお医者さん(「浜田クリニック」と言ったのでしたかしら?)を訪ね質問しました。
“先生、病君の病気は治るのでしょうか?”
“宇佐美さん、本当に良く辛抱して面倒を見て下さっていますね。 どうか今まで通りに、面倒を見てやって下さい。 決して「頑張れ!努力せよ!」等と言わないで下さい。 治してやろう等と思わないで下さい。 |
彼が医者のもとに通っても、彼のために、せいぜい数分費やすだけで、後は沢山の薬を彼に渡し、薬漬けにするなんて、なんて酷い医者なんだろうと、その時は思いました。
そこで、
精神病は治るといった本を出している森田療法のお医者さんを二人で訪ねました。 でも、先生はおっしゃいました“残念ですが、彼の病気は治らないのです”と。 |
(5)それでも、なんとか治してやりたかった |
病君は永い問の王様待遇の結果、とても明るく、とても元気になりました。
そしたら、驚いた事に
“宇佐美さん、僕結婚したい、もうお見合い何回かやったんですよ、 病気治ってきましたものね” |
“冗談じやない!ちっとも治っていないよ。皆が、かばってくれているから元気でいられるのだよ”
“そんなことないですよ。僕治ったのですよ”
これではいくら言っても駄目。これからは飴ばかり与えていては駄目、飴を取り上げなくてはいけないと思いました。
彼が独身で居るのなら、私たち会社の人間は勤務時間中だけ彼に接していれば良いのですが、結婚となると奥さんとは生涯一緒です、そのうち子供も出来ましょう。
そんな時、彼は耐えられるでしょうか?私は、否!と思いました。
ですから、この点をはっきりと彼に認識して貰わなくてはと思ったのです。
それまでは、
病君が出張する時は、いつも私が一緒でした、K工場へ朝から直接出張する時も、 (彼が不調の時は、二人の最も共通の話題となる音楽の話をするのが一番でした。) |
そんな二人の関係(「恋人同士」と揶揄する人も居ました)を一転して、
或る時、私は“病君!明日、A工場へひとりで出張してくれ!”と告げました。 途端に、病君は“嫌です!”と泣き出しました。泣き続けました。 |
そこで、帰りは駅まで一緒に帰りました。
ホームに来ても泣き止みません。
大声で泣きました、鼻水もたらして。
(その声は、50メートル以上離れた崖や家並と反響し物凄くワンワンと響きました。
周りの人はびっくりしていました。)
電車が何台も来ましたが、彼は電車に乗ろうとせず泣き続けました。
そこで、彼の家は私の家とは方向は違うのですが、1時間ほど電車を乗り継いで彼の家まで送ることとしました。
鼻水でベタベタとなった彼の手を引き電車に乗っても泣き止みません。
(勿論、車内の人もびっくりです。)
そして、泣き続けていました。
でもけれど、電車を降りて、彼の家の前まで来ると、“宇佐美さん、家に入ってお茶でも飲んで行きませんか?”とけろりとした顔で言いました。
勿論、お茶をご馳走になって帰りました。
そして、このような状態で数ヵ月が過ぎました。
或る時、彼は言いました“宇佐美さん、昔はあんなに優しかったのに、随分冷たい人になってしまいましたね。”と、私はとても悲しかったです。
(6)社会的に抹殺される事を恐れた? いいえ |
彼に、冷たく接していると、“宇佐美さん、酷すぎるよ、病さんがかわいそう”と周囲の人から非難されました。その人達に事情を説明すれば、少しは分ってくれたかもしれません、でも説明しませんでした。
当然の結果、彼の調子が下降してきて“宇佐美さん、病さんの様子が変よ。さっきから姿が見えないの。”という電話が作業場の女性から何回も掛かって来ました.その都度、彼を捜しに行きます。
なかなか見つかりません。
(彼の大好きな喫煙所にも居ませんでした。)
そして思いました、屋上からでも飛下りてはいないかと、可哀相に彼は死んでいるのかもしれないと。
そうしたら“宇佐美があんなに厳しく扱ったからだ。なんといったって、宇佐美が悪い、宇佐美のせいだ・・・”と非難を浴びるでしょう。
そうなったら私は会社には居られなくなるでしょう。
会社を辞めるのは、かえって嬉しいくらい、でも、例へ,会社を辞めて私の憧れの歌の世界に転身したとて、“歌の心等と言っても、宇佐美の冷たい心が人を殺したんだって、そんな奴の歌なんか聞くな!聞くな!”と誰も私を相手にしてくれないでしょう。
でも、私は恐れませんでした。
彼への態度も変えませんでした。
自分は彼の為に全力を尽くしているので、やましいことは無し。
例え、世の中の人全てが非難しようと、神様だけは分って下さるでしょう。それで十分と、周囲の人に自分の考えを徹底し協力を頼まないと、いくら彼に冷たく接しても、その分、周囲の人が、かえって今まで以上に優しく接する事になったりして、自分の思った通りになかなか進まず、辛くも感じました。でも自分の考えが最上と思い、それを周囲に徹底してしまっていたら、あるいは、彼は自殺していたかもしれませんね。
(今にして思えば、「自分はやましくはない」と胸を張ったところで、それは自分勝手な思い上がりだったのでしょう。
彼の命が失われる事は彼の不幸であり、彼の両親の不幸でもあったはずです。
そして、私に代わって彼に優しく接してくれた女性の方々に感謝しています。)
(7)殺される事を恐れた? いいえ |
病君への、王様待遇をやめて、彼に辛くあたると、彼は言いました。とても恐ろしい顔をして、
“宇佐美さん!新聞で読んだでしょう、辛く当たった上長を金属バットで殴り殺したという話。”そういうと、部屋の隅に行き、
金属バットを持って来て、二人の机の間にドンと置きました。 |
そして、暫くはそのままにしてありました、いつ殴り殺されるかもしれませんでした。
(勿論、金属バットに対抗して護身用の別の武器を携帯する事はしませんでした。)
彼に背中を見せることは、死を意味する事でもあるとも感じました。
でも恐れませんでした。(警戒しませんでした。)
人を導くに当たってその人を恐れていたらその人は、私について来てはくれないでしょう。
今まで通りに背中も見せましたし、接する態度も変えませんでした。
彼の死も、自分の死も恐れませんでした。
互いに死を賭けねば、彼は治らないと思いました、又、彼は治らなければ死んでいると同じと思いました。
治してあげたかった。
(勿論、今思えば、「彼が死んでもよい」と思うのは、私の思い上がりでもありましたが・・・)
(8)病君婚約する |
或る朝、会社への道すがら、病君は綺麗な角封筒を私に差し出しました。
“宇佐美さん!これ受け取ってください!”
私は、その角封筒の中身が、「小切手」かしら?と思いました。
今まで、彼を面倒見てきたお礼としての?
だとするとその額面は、100万円かしら、いや!もっとだろう400万円くらいかしら?
でも、そんなお金要らないのになあ〜〜!との考えが一瞬のうちに頭の中を駆け巡りました。
しかし、小切手でも商品券でも金券でもなくて、招待状でした。
それもなんと彼の結婚披露宴への招待状でした。
そこで、彼に告げました、
“相手方に自分の病気の事をはっきり告げて、 先方が承知したのなら喜んで招待されるけど、 そうでなかったら出席しないよ!” |
と彼に告げました。
(9)彼が結婚してしまった時は? |
彼には、結婚する前は必ず相手の方と一緒にお医者さんのもとに赴き、相手の方に病気の内容を良く納得頂いてから返事を貰うようにと何度も言っていたのですが、実行せず結婚してしまいました。
(勿論、私は披露宴を欠席しました)
その後、彼は “ノイローゼで休職したことは告げましたよ”と私に告げました。
(彼の父親も同じような事を私に言いました。更には、“付合っているうち,病気の事分っていた筈では?”と。)
そして、又、彼は言いました、“一緒に病院に行こうと言ったけど、彼女が断ったのだ”と。
(この病君の言葉が本当かどうかは私には分りません。)
それでも、私は、この彼の申し出を断った彼女になんの罪は無いと思うのです。
彼女は、永い間、素敵な結婚を夢に見、職場の友達がどんどん結婚して行く中で「何日の日か、皆を見返してやれる結婚をしよう。又、見返す事が出来なくても、早く結婚したい」と思っていたかもしれません。
そこへ、病君が現れたのです.
日本有数の大企業であるH製作所に勤め、 仕事は今をときめく、半導体、しかも、コンピューター関係、 東北大を卒業し、その上、修士課程も修めており、 ヴァイオリンは、アマチュアのオ−ケストラでは、コンサートマスターを受け持つ腕前。 |
これでは、病君が彼女にとって、「白馬に跨がった王子様」に見えても当然ではないでしょうか?
その王子に何か秘密が有りそうでも、知りたくないし、たとえ有ったとしても、我慢しょう。
「早くお友達に自分がやっぱりシンデレラであったことを納得させたい。早く、晴れの式を挙げたい。(夢として消えてしまわないうちに)
晴れ舞台の後は、耐えねばいけない事があったら耐えていこう。今は、ともかく、式を挙げてしまおう。」と思ったとて、彼女を非難出来るでしょうか?
いえ、むしろ彼女が思ったであろうことは、当然であり、そういう彼女を同情し愛しくさえ思います。
病君は、結婚後、案の定、大きく崩れました。 |
彼に聞きました。
“奥さん何て言っている?”
“頑張れ!頑張れ!って(勿論,優しく)・・・”
これはいけない!悲劇があまりに大きくならないうちに、と思い、彼女の実家に行きました。実家といっても、彼女には親がいない為、彼女の親戚の家です。
その日、彼女は病君に耐えられないと実家に戻っていました。
そこで、私がお医者さんに聞いたこと、又、この書面に今まで書いてきたような事を話し、それでも、結婚生活を続けるというならともかく(いいえ、それは、ほとんど、不可能?)この際良く考えてくださいと告げました。
数日後、彼と彼女と彼女の親代わりの方と5人で、 会社の診療所の先生を訪ねて彼の病気の説明をして頂きました。 |
先生は、“この病気は治るという立場を取られる方と、治らないという立場を取られる方がおります、(確かこの先生は、「治らない派」だった?)そして、結婚を続けるにはそれなりの覚悟が必要です”とおっしゃったと記憶しています。
そして、
二人は離婚しました。 |
あまり長くなりましたので、この辺で「第一部」を終わり、次は「第2部」《弱者と強者(2)》として書かせて頂きます。